教員を苦しめる法制度(教員の働き方を考える2)

 前回の記事で、教員の「代わりのきかなさ」を書いたが、今回は「人事配置と業務への対応」について記していこうと思う。

 ちなみに僕は人事に関する仕事に携わったこともないし、教員人事のルールや制度についてよく知らない。あくまでも、僕個人の経験と感覚に基づく記事と思って読んでいただきたい。間違いがあれば指摘をいただきたい。

 

 ある学校に配置される教員の数には定数というものがある。学級数に対する数だったかと思う。また、特別な事情により、定数以上の教員が必要な場合、加配措置というものがある。つまり、基本的には児童生徒の数によってその学校の教員数は決められる。学校現場にいるときはこんなこと当たり前と思っていたのだが、行政職を経験して、このルールは教員を苦しめている原因の一つであると思った。

 

 行政職の場合、その年度やある時期に大きな事業をすることになった場合、その部署に人が多く割り当てられる。そして、その事業が一段落つくと、元の数に戻される。そのような人事配置が可能なのである。なぜなら、全ての部署が常に忙しい訳ではないからである。これは働き方として大変効率が良く、合理的なものだろうと思う。

 一方、教員の場合、上述のように児童生徒の数で教員の数は決まり、例えば、今年度は新しい教育が始まりますということになっても基本的に人は増えない。近年の例で言えば、一人一台端末の導入、道徳の教科化、小学校の英語などが挙げられる。教員は限られた数で、新しい教育をするための知識やスキルを次々に身につけなければならず、いわば、「ビルド&ビルド」の状態なのである。

 こういうことを言うと、教員は「職責を遂行するために絶えず研究と修養に努めなければならない」(教育公務員特例法第21条)から、当たり前でしょ? それをわかった上で教員になったんでしょ?と言われるが、では、その研究と修養にあてる時間がどこにあるのかと思う。児童生徒が在校している時間は、授業等で教室にいなければならず、放課後は委員会活動や部活動、土日も部活動である。勿論、問題行動が起こった場合、その対処もしなければならない。仮に、朝の会・帰りの会もなく、給食指導・掃除指導もなく、1日の授業が4時間くらいで、放課後が教材研究に充てられるのであれば、勤務時間内に新たな課題に対応するのは可能かもしれない。とにかく、教員はやることが多すぎるのある。

 

 もう随分前になるが、教育をテーマにしたある討論番組で、「総合的な学習の時間が当初の理念のようになっていない」と指摘されたのに対して、元教員のパネリストが「新しいことをしようとするなら、それに応じた人と予算をください」とピシャリと言ったのを覚えている。まさにそのとおりである。人も増えない、予算もない、今いる人と予算で何とかしろ、ということは労働時間が増えることと等しい。

 

 時代に応じた新しい教育をする必要はもちろんある。しかし、1つ増やすなら、1つ以上減らさなければ、労働時間は増えるだけである。何かを始めることに対して、終わらせることは難しいが、勇気をもって終わらせることが必要な時代になってきている。いや、そもそも現在の学校教育の在り方そのものを変革しなければならない時代にきていると思う。これについてはまた別の記事で。

「教師不足に関する実態調査」から(教員の働き方を考える1)

 先日(1月31日)、文科省が「教師不足に関する実態調査」の結果を公表した。これまで、全国的に教員が不足しているとの報道は多々あったが、国による調査は初めてだったため、大きな注目を集めた。1面も含め、特集を組んでいる新聞もあったくらいだ。

 結果についての詳細は記述しないが、特に小・中学校で定数に対して不足していることが明らかになった。教員の業務量を考えると、定数を満たしていても、「ブラック」と言われるのに、定数を満たしていないなら、その学校の他の教員への負担はかなり重くなっていることが推察される。

 小・中学校に対して、高校は不足率は低かった。これは近年、全国的に県立高校人気が低下していることと関係があるだろう。詳しくは別の機会に書こうと思っているが、本県においても、県立高校の定員割れは常態化している。あくまでも、個人的な感覚だが、県立高校生徒数に比べ、県立高校教員は多い気がする。詳しい数字は明らかにされないだろうが、学校によっては、一人の教員が相手にする生徒数は小中学校と比較して、かなり少ないケースもあるだろう。それを是正するために、大鉈を振るわなければならないと思うのだが、かなり難しいことだとも思う。

 

 さて、「教員の働き方改革」なるものが言われ始めて、5年くらい経過したような気がするが、この期間、教員の業務は減ったのだろうか。ここ4年、学校現場を離れている僕は、その実態がわからないのだが、知り合いに聞くとおおむね「ほとんど変わっていない」と言う。コロナ禍において、むしろ増えた業務もある。なぜ、「教員の働き方改革」は進まないのか。いろいろ理由はあるが、今回は「代わりのきかなさ」について書こうと思う。

 

 個人的な経験になるが、ここ4年、僕は行政機関で働いている。率直な感想としては、学校現場と比べ、働きやすいと思っている。たまに大変なこともあるが、学校現場の「どうにもならなさ」がない。定時に退勤できることもしばしばあるし、平日の休みも比較的とりやすい。その違いは何なのかと言うと、「代わりがきく」ことである。学校現場の場合、僕が休んだら、他の教員が自分の学級や自分の担当授業の自習監督に行くことになる。その日は勿論、誰かが代わりをしてくるのだが、翌日以降、学校に行ったときに授業の穴埋めをしなければならない。つまり、実質的な代わりになっていないのだ。

 一方、行政機関の場合、僕が休んだとして、その日のうちに処理しなければならない案件が発生しても、誰かが代わりに処理してくれる。翌日以降、出勤したときには既に終わっているのだ。この違いは大きい。学校で言えば、自分が休んだ分の授業を他の教員が進めてくれているということになる。小学校ではこれは可能かもしれないが、中学校の、しかも教科担任が一人しかいない学校においてはこれは不可能である。つまり、授業も含め、部活動、生徒指導等、学校の教員は「その人でないとできない業務」が多い。だからこそ、多くの人が必要なのであるが、上述の調査からも明らかなように、どの学校もぎりぎりの職員数である。

 そのような専門的な職業であるにも関わらず、教員の給料は低い。2月4日発行の「内外教育」によれば、「2000年代の小泉政権は・・・公務員数と給与削減を強行。特に教員の人件費を狙い撃ちにした。その結果、05~10年の間、月例給(43歳)は、・・・教員で14ポイント下がった」(「今こそ教員給与改善を」)とある。個人的な感覚としても、給与は少ないと感じているし、上がり幅も少ないと思う。若い頃は、この年齢になれば、もっと給与は多いだろうと思っていた。

 

 教員の業務量の多さ、給与の少なさにも関わらず、日本の子供の学力や規範意識などは国際的に見て高い。それは、時間を顧みず、献身的に、熱意をもって、目の前の子供たちのために仕事にあたってきた日本全国の先生方のおかげだろうと思う(僕をその一員に加えることはおこがましい)。実態を考えれば、給与改善は検討されなければならないのだが、かなり難しいことだと思う。だから、学校自ら、教員自ら、業務を減らしていくしかないのだ。かつての僕も含め、教員は「子供たちにためにここまでしなければならない」と思っていることが多すぎる。教育の第一義的責任は保護者にあるのだから、教員はそこまで大きく考えなくていいのだ。「学力が下がった」なんて言われたら、「家庭での生活習慣の躾がなってないんじゃないの?」と平気で言えればいいのだが、そんなこと言ったら、おそらく各方面から非難囂々だろう。それは、学校にあまりにも多くのことを求めている日本の悪しき状況だろうと思う。

印象に残っているライブパフォーマンス

 30周年記念ライブツアー発表の話に続き、これまで僕が参加したライブの中で、印象に残った曲をいくつか書いてみようと思う。

 

◆くるみ(DOME TOUR 2005 ”I♥YOU”)

 もともと好きな曲ではあったが、このツアーでのアレンジは最高だった。この曲はいろいろなライブアレンジがなされているが、このときのアレンジが最も好きだ。このアレンジをもう1回聴きたいと思い、初めてライブDVDを買ったくらいだ(以後は毎回のように買うことになった)。浦さんのピアノ、1番のラスト、桜井さんのハープ、後奏・・・など、どこを切り取っても素晴らしい。

 

CROSS ROAD(HOME TOUR 2007-in the field-)

 ミスチルを有名にした曲であるが、ライブでの演奏は少ない曲である。だからこそ、嬉しかったし、バイオリン(?)のイントロを聴いた瞬間、泣きそうになったのを覚えている。以前、何かのインタビューで、「背負っているものが大きすぎてなかなか歌えない曲」というようなことを桜井さんは言っていたが、30周年では歌ってほしい。ちななみに、25周年ツアーのドームの方では演奏されたが、スタジアムでは歌わなかったため、DVDに収録されていない。

 

◆エソラ(Tour2009~終末のコンフィデンスソングス~)

 正直、何のイントロかわからなかったが、エソラとわかったとき、鳥肌が立った。何でこういうイントロを思いつくんだ、小林武史(たぶん)と思った。このアレンジは、参加できなかった20周年のオープニングでも演奏され、当時、WOWWOWの生中継を見ていた僕は、こんなオープニングはするい、最高すぎると思った。小林武史がツアーに帯同しなくなってからはこのアレンジは演奏されていないので、特許のようなものがあるんだろう。

 

Tomorrow never knows(STADIUM TOUR2011 SENSE-in the field-)

 この曲はこのツアー以外でも聴いたことはあるが、それまでのツアーではアンコールは多くても3曲が多かったので、「星になれたら」が終わった後、あとは「かぞえうた」で終わりかなと思っていたときに、イントロが鳴ったため、それで興奮したということが大きい。また、このときはスタンドの最上段から見ていたのだが、その場所のせいか、大サビの観客の一体感がとても素晴らしかったのを覚えている。

 

◆終わりなき旅(DOME&STADIUM TOUR2017 Thanksgiving25)

 この曲も参加したツアーで何度も聴いた曲であるが、ラストの曲であったこと、熊本で聴いたこと、最初と最後の桜井さんの雄叫びがあまりにも格好良かったこと、などいろいろな要素が合わさって、僕の中での「終わりなき旅」ベストテイクである。

 

 以上、思いの外、たった5曲しかなかったが、この5曲は今でも脳裏に残っているパフォーマンスだ。もちろん、これ以外にも素晴らしいパフォーマンスはたくさんあったし、参加できなかったけど、DVDなどで見て、生で聴きたかったパフォーマンスもある。次はそのへんを書いていこうかな。

30周年記念ツアー発表!

 Mr.Childrenのデビュー30周年記念ツアーが発表された。

Mr.Children 30th Anniversary Tour 半世紀へのエントランス (mrchildren.jp)

 

 第6波の最中での発表は控えるかと思っていたが、大々的に発表された。30周年を祝うツアーとしては、公演数は少なく感じるが、コロナの終息も読めない中で難しい判断だっただろうと思う。個人的には、このツアーが始まる頃には、収束しているとは思う。そう思いたい。

 

 さて、過去の記事に書いているが、これまで僕はミスチルのライブに13回参加した。13回参加できたことはありがたいことだが、近年はあまり感動しなくなっていた。「重力と呼吸」、「Againt All GRAVITY」は特にそう思った。慣れのせいか、それとも、25周年記念ツアーの満足度が高かった(選曲、パフォーマンスが素晴らしく、しかも熊本で千秋楽だった)せいか、齢をとってきたせいかわからないが、「Againt All GRAVITY」が終わった後、もうライブには行かなくていいなと思った。

 しかし、コロナ禍の中、あらゆるイベントに行けなくなったり、旅行に行けなくなったりし、非日常の体験をする機会はかなり少なくなった。加えて僕は昨年、引っ越しをし、通勤方法が変わったため、日常的に音楽を聴く機会がほとんどなくなった。そんな状況の中、30周年記念という大きな節目のツアーの発表は、僕の心を躍らせるものとなった。やっぱり、ミスチルのライブに行きたいー今はそう思っている。

 

 ただ、簡単にはいかない。ドームツアーとは言え、チケットの争奪戦は激しいものになる。加えて、2年前と家族構成が変わった。次年度は異動があるかもしれない。これまでのように、何も考えずにチケットを申し込むわけには行かない。考慮すべき要素がある。

 

 20周年が参加できなかったから、30周年は参加したいという思いもある。20周年のオープニングの「エソラ」をDVDで見て、これを会場で見ることができなかったことを後悔した。このオープニングを超えるものは今までないと思っている。

 

 30周年という記念の年に加え、この2年、大々的なイベントができなかったことに対する期待がメンバーにもファンにもある。

 「これは凄いことになります!」と桜井さんは言っている。その凄さを会場で体験したい。コロナの収束を願う。

急激な感染拡大

 コロナ感染者が急激に増えている。熊本県をとっても、先週金曜日の31人に対して、一週間後の昨日は390人と過去最高を更新した。これまでの変異株と違って、増え方が尋常じゃない。

 しかし、この増え方も予想されたことではないかと思う。南アフリカを始め、諸外国の例を見れば、急激な感染拡大は十分に予想されたことである。

 毎回、感染拡大する度に思うのは、諸外国の例を参考に、「このくらい感染拡大したらこうします」とかを政府や自治体が予め言っておけないのかと思う。そうすれば、バタバタ感がない。落ち着いているときはほとんど情報発信もせず、増えだしてから慌てて情報発信をする。6回目ならもう少しうまくできないのかと思う。

 個人的には、特に今回のオミクロン株はただの風邪ウイルスだと思っている。ニュースなどを見ていれば、重症化した人をさも深刻そうに報道しているが、ただの風邪であっても重症化することもある。感染者及び濃厚接触者が増えることで、社会機能が麻痺することが深刻だ。国は、濃厚接触者の待機期間を変更したが、こういうのも12月中にしておくべきだったと思う。

 

 さて、世界中を覆ったコロナパニックの幕開けから、まもなく丸2年を迎えようとしている。この2年で人間の社会生活は大きく変容した。テレワークが普及し、「オンライン」と名のつくものが増えた。会議にしろ、研修にしろ、飲み会にしろ、オンラインでできないことはない。しかし、相手が目の前にいるのと、画面の向こうにいるのとでは、気持ちや意志の伝わり方は全く異なる。できないことはないが、コミュニケーションは深まらない。ただ、事務的な説明を聞くだけならオンラインで十分だが、親睦を図ることが目的なら不十分である。オンラインは便利でもあるが、不便な面もある。我々人間は、この2年でコミュニケーションを必要としていることを改めて実感したのではないだろうか。

 

 天然痘やペストが流行したときにどの程度、社会が変化したかわからないが、長い人類史から見れば、このようなことを経験しながら人類は進歩していくのであろう。

予想された辞任表明

 菅総理自民党総裁選に出馬しないこと、つまり総理の座を辞すことを表明した。

 前回の記事で僕は「辞任は近いかもしれない」と書いたが、そのとおりになった。

 

 そもそも、菅さんが一国の総理を務めるだけの力量を持っていないことは就任前から明らかだった。特に、コロナ禍という国難を乗り越える危機管理能力を持ち合わせていなかった。前総理が突如として辞めたたために、つなぎくらいの役目だった。コロナ禍でなければもう少し長くできたかもしれないが、経験したことのない国難に立ち向かうには明らかに力量不足だった。

 

 一年前の今頃、菅さんの支持率は高かった。前総理がいろいろなグレーな部分を残して辞めたことに対する反発も大きかったのだろう。世襲ではなく、自らの努力によって総理の座まで上りつめたことは美談のように語られた。

 

 就任から秋頃にかけては、コロナも落ち着いていたため、特に国民からの不満は出なかった。しかし、前回も書いたように、年末くらい、コロナが再び増え出してから、その対応のまずさが不評を買うようになった。

 確かに、菅さんが有効なコロナ対策ができたかと問われたら、是とは言えないだろう。特に、デルタ株の脅威は前もってわかっていただけに、流行する前にもう少し何かできなかったのだろうかと思う。しかし、誰が総理をしても、コロナを封じ込めることは不可能である。収束を総理に期待するのはお門違いである。

 誰かを批判するのは簡単だ。政策を決定する苦労に比べ、それを批判するのはあまりにも容易い。そもそも、我々が目にする政策決定のニュースにはマスコミのバイアスがかかっている場合が多い。それを間に受け、総理の批判をする。総理の苦しそうな表情、頼りなさそうな表情を映す。印象操作だ。また、野党が批判ばかりしていて、対案など何も考えてないようなニュースを流す。

 

 マスコミの皆さん、確かに誰かを批判したくなるようなニュースが売れるんでしょうけど、国民全体で危機を乗り越えられるような、前向きな報道をしませんか。この一年半、みんな窮屈な思いをしています。世論を作るのはマスコミです。もっと、明るい希望が持てるようなニュースを流しませんか。

コロナとオリンピック

 新型コロナウイルスの感染者が増え続けている。これまで、緊急事態宣言又はまん延防止措置期間は抑制されていたのだが、今は増え続けている。

 背景には、感染力が強いとされるインド由来のデルタ株の影響が大いにある。また、開催中のオリンピックの影響もあるだろう。

 

 オリンピックについては、開催前から反対の声があった。「いろいろなイベントや学校行事が中止になっているのに、何故オリンピックはやるのか」ーこのような声はよく聞かれた。

 しかし僕はこういう発言は理解しかねた。オリンピックに出場する選手及び関係者はおそらく検査を受ける。一方、様々なイベント等に参加する一般の人は検査を全員は受けない。つまり、総理が言っていたように、オリンピックに関わる人たちにとっては「安心・安全」だった。また、総理の思惑として、日本人はオリンピックが大好きだから、オリンピックが始まり、日本選手が活躍すれば、オリンピックを支持すると思ったのだろう。

 

 ところが、事態はそうならなかった。多くの国民にとって、楽しみなのはオリンピックより、日常の付き合いやイベントであり、「オリンピックがあってるから遊んでいいんじゃないか」という雰囲気を作ってしまった。オリンピック開催の効果は総理がおそらく意図していたことと真逆の方向に進んでしまった。

 総理は、「オリンピックと感染拡大のつながりはない」という趣旨の発言をしているが、確かに、無観客にしたことで人流は抑えられたが、解放的な雰囲気を作ってしまったことは間違いない。

 

 今日、広島に於いて、総理はスピーチの内容を読み飛ばすミスを犯した。おそらく、相当疲れているのだろう。

 安倍前総理が辞任の発言をしてまもなく一年。コロナが少し収まり、今後の道筋が少し見えたことも辞任の一つの理由だった。その後誕生した現政権においては、都道府県で状況が違ったことにより、コロナ対応は都道府県任せとされ、国は経済対策を進めた。その影響もあり、冬に入ると、再びコロナは全国的な拡大を見せ、国の対応が問われるようになった。その後の国の対応のまずさが現在につながっている。

 

 コロナ対応は、どんな策を講じても批判は来る。為政者たちの心労は計り知れない。未知のウイルスとの戦いは終わりが見えない。

 この状況の中、開催したオリンピックは1964年のオリンピックとは対照的に、暗い歴史として残るであろう。可哀想なのは日本人選手である。せっかくの日本開催なのに、ホームの雰囲気を味わうことなく、競技をしなければならない。

 

 総理の辞任も近いかもしれない。