2年間の離職のあとに

 この2年間、学校現場を離れた理由は、前向きな言葉で言えば、違う環境で新しいチャレンジをしてみたかったからで、後ろ向きな言葉で言えば、学校の仕事に飽きていたからである。飽きたと言っても、採用されてから9年、臨時採用の期間を含めると15年程である。8年目か9年目の頃、先輩の先生に「学校の仕事に飽きたんですよね」と話したら、「10年くらいで何言ってたんだ。あと20年くらいあるんだぞ」と言われたことがある。

 だけど、僕が飽きたのは事実であり、それは僕の飽きっぽい性格もあるだろうが、それ以上に大きいのは毎年同じことの繰り返しだったからである。それは採用2校目から続いたサイクルだった。

 

 採用2校目と3校目は、小さな学校だったことで、僕の担当教科は僕以外にいなかった。学校にその教科の教員が一人しかいないということは、教科経営は思うようにできるのであるが、全ての授業を一人で担当せねばならない。学年一クラスしかない学校なら授業数はそれほど多くないのだが、2校目と3校目の学校はともに学年二クラスの学校であり、社会科の教員にとって最もきついと言われる規模だった。

 もちろん、そのような規模の学校は他にもたくさんあるし、多くの方がその学校の中での仕事をこなしているのを聞いていた。僕も、それをこなすことができた。しかし、本当にただこなしただけである。そこには、時間的・精神的余裕も、創造性もなかった。すべきことをただこなすだけーそんな日々だった。

 

 そんな状態が嫌になり、僕は学校を離れたいと思うようになった。僕はもともと社会科の授業がしたくて教員になったのに、毎年同じことの繰り返しで授業が全く楽しくない。新しいことを取り入れる余裕もない。加えて、学校現場の過酷さが少しずつ明るみになる中でも、何も変わる気配さえ感じなかった。ならば、一時的に離れてみようと思った。その間に、学校現場の労働環境は少しは改善され、僕も若い頃と同じように授業に対しての熱意を再びもつようになるだろうと。

 

 しかし、この2年間で学校現場は全く変わらず、僕の熱意は戻ることはなかった。それでも、期間限定で出向させてもらった身だから、期間満了とともに学校現場に戻らなければならないだろうと覚悟はしていた。

 そんな僕に言い渡された辞令は、県教育委員会勤務という驚くべき、そして昂ぶるものだった。